[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]
01で「ある人の人生をその人の行為の全体だとしよう。このとき、ある人の人生の意味は、その人の行為全体の意味である。」と述べたうえで、行為の意味について説明した。04では、行為の意味について問答推論関係によってより詳しく考察した。
しかし、人生を行為の連続体として捉えられるとしても、その意味は、それの要素である個々の行為の意味の集合体と考えることはできないのではないか、という反論があるかもしれない。なぜなら、<人生の意味は、それを構成する行為の意味の集合以上のものである>と思われるからである。
この反論に対して、二つの注意をしておきたい。
このような反論は、人生は、諸行為が単に連続するだけでなく、諸行為が意味的により統合されたものであると想定しているだろう。言い換えると、諸行為が一つの物語を構成していると想定しているだろう。もちろん、<私たちの人生は、ある物語を構成している>という考えを全く否定する必要はないし、それは多くの場合有効であろう。しかし、前回も述べたように、私たちの人生は、複数の仕方で物語られうる。人生そのものは、どのような物語によっても完全に掬い取られない。人生そのものは物語形式による理解を越えている。だからこそ、自己の人生や他者の人生についての私たちの理解は、常に開かれている。そしてそのことが、私たちが自己や他者を自由であると考えることを可能にしている。
これに関連して付け加えると、私たちは、自我の同一性について、紋切り型の理解はできない。平野啓一郎の「分人主義」の例があるように、自我の同一性についても、多様な考え方がありうるだろう。
もう一つの注意点は、行為の意味を行為の上流下流の問答推論関係として理解する時、
Xのある時点の行為とそれ先行する行為との関係や、それに後続する行為との関係もまた考慮されているということである。したがって、諸行為が物語を構成しているならば、その物語関係もまた考慮されているということである。